某雑誌に国語学の教授がこんな記事を書いていた。現代人は森鴎外の文章が読めなくなりつつあると。そこには
「魚玄機」の文章が例に出されていたが、なるほど現代人にとっては鴎外の文章も、もはや「古典」の部類に入ってしまうのか、とそのとき思った。
すると名作「舞姫」なども当然読まれなくなるだろうし、これから更に時代が進めば、昭和の文壇を賑わした文豪たちの作品も、次第に「古典」となってしまう
のであろう。
そもそも「近代」という区分の名称は、あくまでコンテンポラリイ(現代的な)という意味での名称であって、時がたてば当然その
特質は当然色褪せていくだろうし、流行からも当然遠ざかっていく。つまり古典となっていくのである。それは当然の成り行きだからよいとしても、
私はこの<近代>と呼ばれている時代区分の作家が見た<古典>というものに、大変な関心を寄せているのである。芥川、川端、谷崎、三島、福永……。
次第に時代の人、古典の人となりつつある彼等が憧れ見つめてきた<古典>とは、一体どのようなものであったのか、それを私はこの場を借りて書いていきたいと思う。
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