ここでは古文を読むうえで、覚えておいた方がいいと思われる呼応表現についてまとめてみました。呼応表現とは、あまり聞き慣れないかもしれませんが、現代文法でも「呼応(陳述)の副詞」などで、用いられるものです。たとえば「おそらく〜だろう・もし〜なら(たら)」などで、「おそらく」という語がくると「だろう」を必要とするとうなタイプのもので、それの古典バージョンだと思ってくれればいいです。
【否定形】
(例文)
木の葉にうづもるるかけひのしづくならでは、つゆおとなふものなし。(『徒然草』)
「木の葉にうづもれている樋の滴の音以外は、全く音をたてるものはない。」
(例文)
すべて物だにも言はず、目も見あはせず。(『俊頼髄脳』)
「まったく口さえもきかなく、目も合わさない。」
(例文)
いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。(『源氏物語』)
「たいして身分の高い者ではないが、特に帝の寵愛を受けていらっしゃる方がいた。」
【疑問・反語形】
(例文)
いかがつかうまつるべからむ。(『古本説話集』)
「どのようにお仕え申し上げたらよいのでしょうか。」
(例文)
仏に申し請ひたりけるしるしにや(あらむ)。(『無名草子』)
「仏にお願い申し上げた効き目であろうか。」
【禁止形】
(例文)
いまさらに、なおほとのごもりおはしましそ。(『枕草子』)
「今さら、おやすみなさいますな。」
【その他の呼応表現】
(例文)
世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ(『更級日記』)
「この世の中に物語というものがあるかというのを、何とかして見たいと思っては」
(例文)
遠きところへ行きけるにこそ(あらめ)(『堤中納言物語』)
「遠いところへ行ったのであろう。」