尾形仂『「おくのほそ道」を語る』
第一章第二部「歌枕・俳枕」の要約

1998年7月 高寺 康仁






 千住での旅立ちの章に続く、草加での第一夜についてつづった章に、「ことし、元禄二年にや」という言い方がある。〈発端〉の章の「予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず」という言葉とも合わせ、旅から旅へと明け暮れた長い漂泊の人生の中で、ふと現実の年を刻む元禄二年という年号に気付いた漂泊者の吐息といったものを感じさせるとともに、『源氏物語』の「いづれの御時にか」という文言を思い起こさせ、この作品のなかを流れているのが、現実の元禄二年という年次を越えた物語空間なのだということを、いっそう強く感じさせる。

 芭蕉がここで旅の目標としていっている、「耳に触れていまだ目に見ぬ境」とは、何を指しているのか。耳にのみ聞いていまだ見たことのない土地を見ることができて、もし無事に生きて帰ることができたら幸いだと、命をかけて訪ねたいと思った目当ての土地、それはただ見たことのない珍しい土地ということではなく、昔から歌人たちが歌に詠み継いできた和歌の名所、いわゆる歌枕を指していったものに他ならない。 昔のすぐれた歌人が和歌に詠み、後の世の歌人が先人の詩情を反芻しながら、歌に詠み継いできた地名。それは単なる地名にとどまらず、ある特定の詩的イメージを伴い、新しい詩情を呼び覚ます力を持っている。「おくのほそ道」の目標である東北。北陸地方は、近畿地方に継いで二番目の歌枕のメッカでもあった。
 芭蕉はこの旅に出発する直前、郷里伊賀の門人に宛てた手紙の中で、こう述べている。

能因法師・西行上人の踵の痛みも思い知らんと、松島の月の朧なるうち、塩竃の桜散らぬ先にと、そぞろに忙しく候。
 つまりこの旅は、そうした歌枕を訪れて、古人の詩心を検証してまわる、いわば歌枕巡礼の旅として企てられたものである。

 〈室の八島〉は、この旅に尋ねた最初の歌枕である。室の八島については、藤原実方、源俊頼などの歌があがっている。次に訪れた〈日光〉の男体山は、黒髪山と呼ばれて、これも歌枕の一つである。源頼政の歌があがっており、「黒」との対比で白い「雪」を詠み込んだ歌が多いが、芭蕉も同じく「白雪」を意識して歌を詠んでいる。〈那須野〉も歌枕の一つで、源実朝の勇士を下敷きとして、芭蕉は馬上での勇士を気取って歌にしている。〈遊行柳〉は特に歌枕として取り上げられていないが、芭蕉がわざわざここに立ち寄ったのは、そこが西行の歌に詠まれ、謡曲『遊行柳』に脚色されていたからである。
 紀行文上の〈白河〉の一章は、古歌の反芻の上に成り立っている。古歌の数々を反芻したことが、芭蕉に陸奥入りを確信させ、「旅心定まりぬ」、つまり旅のなかに浸りきった気分にさせている。古歌に詠まれた「秋風」や「紅葉」のイメージを重ね合わせることにより、いま目の前にある「青葉の梢」に、ただそれ自体を漫然と眺めるのとは違った、深い、「あわれ」を催し、詩的感動を深めているところに、芭蕉の自然観照、ものの見方の大きな特色がある、ということができる。
 〈須賀川〉では、古歌の詩情を反芻しながら、芭蕉はそれとは違い、みちのくの風土に生きて働く農民たちの田植え歌に耳を傾け、その素朴な歌声のなかに、詩歌の源流につながるもののあることを発見し、そこに陸奥入りの喜びを託している。それは、庶民の詩としての俳諧の立場からする、歌枕の捉え直しということができる。
歌枕の地を踏み、伝統的詩情を反芻しながら、その中に埋没せず、それを新しい俳諧の色に塗り替えていく。そうした姿勢は、旅が進むにつれ、いっそう顕著になっていく。たとえば〈最上川〉がある。恋の心を重ねて詠まれてきた歌枕最上川に対する、その急流としての豪快な景観の把握。そこにも自分の目による俳諧の立場からの歌枕の捉え直しがあるといえる。
 松島と並ぶ東北きっての歌枕に〈象潟〉がある。和歌の世界では、能因や藤原顕仲などのように、漁師の苫葺きの家に旅寝する漂泊の侘びしさが詠み継がれてきた。しかし芭蕉は、「蜑の苫屋に膝を入れて、雨の晴るるを待つ」といって、それら古歌の詩情を反芻しながら、しかしそれとは全く違う側面から、象潟の風景を捉えている。芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んで、象潟の入り江の岸辺で雨に濡れて咲くねぶの花に、象潟の風土の情感を集約的に捉えてみせた。
 さらに芭蕉は、歌枕のワクを乗り越え、いわゆる歌枕には登録されていない土地にも俳人として目を向け、数々の名吟を詠み残すことによって、それらの地名をいわば俳枕として、詩歌の地誌の上に登録していく。その例として〈立石寺〉〈越後路〉(佐渡島)があげられる。 このように、芭蕉は歌枕巡礼を旅の目的として、そこから俳枕のように、全く新しい境地を切り開いていこうという姿勢のうかがえる旅でもあった。