中古文学の名歌名場面


『大鏡』 上巻 「三条天皇」(進藤重之)
※引用は『大鏡』 佐藤謙三校注 (角川文庫)
 現代語訳は『大鏡 全現代語訳』 保坂弘司 (講談社学術文庫)より引用しました。
 また、括弧内の片仮名はこちらでつけました。



<本文>

 次のみかど、三条院と申す。これ冷泉院第二皇子なり。御母贈皇后宮超子と申しき。太政大臣兼家の おとどの第一の御女なり。このみかど、貞元元年丙子の生まれさせたまふ。寛和二年丙戌七月十六日、 東宮に立たせたまふ。同じ日御元服、御年十一。寛弘八年辛亥六月十三日、位につかせたまふ。御年三十六 。世を保たせたまふこと五年。
 院にならせたまひて、御目を御覧でざりしこそいといみじかりしか。こと人の見奉るには、いささか 変らせたまふ事おはしまさざりければ、そらごとのやうにぞおはしましける。御まなこなども、いと きよらかにおはしましける。いかなるをりにか、時々は御覧ずる時もありけり。「御簾のあみ緒の見ゆる」 なども仰せられて、一品の宮(禎子)ののぼらせたまひけるに、弁の乳母の御供の候ふが、さしぐしを左 にさされたりければ、「あゆを、など櫛はあしくさしたるぞ」とこそ仰せられけれ。この宮をことのほかに かなしうし奉らせたまひて、御ぐしのいとをかしげにおはしますを、さぐり申させたまひて、「かく美しく おはする御かみを、え見ぬこそ、心うくくちをしけれ」とて、ほろほろと泣かせたまひけるこそ、あはれに はべれ。




<現代語訳>

 次の天皇は三条院天皇と申しあげます。この方は冷泉院の第二皇子です。御母は贈皇后宮超子さまと 申しあげました。太政大臣藤原兼家公の第一番のご息女です。この天皇は、貞元元年正月三日にお生まれに なりました。寛和二年七月十六日に皇太子にお立ちになりました。そして、同じ日にご元服なさいました。 時に御年十一歳でいらっしゃいました。寛弘八年六月十三日、即位なさいました。時に御年三十六歳で いらっしゃいました。ご治世は五年間でした。
 上皇におなりになってからお目がお見えにならなかったのは、たいへんおいたわしいことでした。 はたの人が拝見申しあげたところでは、すこしも普通人と変わっていらっしゃる点がございませんでした から、お目が不自由だなどとは、うそのようでいらっしゃいました。お瞳なんかもほんとにきれいに澄んで いらっしゃいました。どういう場合でしょうか、ときどきはお見えになるときもありました。そんなとき、 三条院は「御簾の編み糸が見えるよ」などとおっしゃりなさいましたし、また、一品の宮禎子さまが 参内されましたときに、弁の乳母がお供として仕えていましたが、その乳母が挿櫛を左に挿しておられたの で、それをお見とがめになって、三条院が「お前、どうして櫛をへんなふうに挿しているのか」と、おおせ になったこともありました。三条院は、この一品の宮をとくべつにかわいがり申しあげなさって、宮の御髪 がたいそうお美しくいらっしゃるのを、手さぐりでお撫で申しあげなさって、「こんなに美しくいらっしゃ る御髪なのに、見られないのは、じつに情けなくくやしいことだ」とおっしゃって、おろおろと声を立てて お泣きになったのは、ほんとにおいたわしいことでした。