『奥の細道』 「日光山」(進藤重之)
※引用は『奥の細道 全訳注』 久富哲雄 (講談社学術文庫)
また、括弧内の片仮名はこちらでつけました。
<本文>
卯月朔日<ウヅキツイタチ>、御山に詣拝す。往昔<ソノカミ>此の御山を二荒山と書きしを、空海大師開基<カイキ>の時、日光と改め給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此の御光一天にかゝやきて、恩沢八荒<オンダクハツクワウ>にあふれ、四民安堵の栖穏やかなり。猶憚り多くて筆をさし置きぬ。
あらたうと青葉若葉の日の光
黒髪山は霞がかゝりて、雪いまだ白し。
剃捨てて黒髪山に衣更
曹良は河合氏にして、惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟<サキガタ>の眺め共にせん事を悦び、且は羈旅<キリョ>の難をいたはらんと、旅立つ暁髪を剃りて墨染にさまをかえ、惣五を改めて宗悟とす。よつて黒髪山の句あり。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。
廿余丁山を登って瀧有り。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落ちたり。岩窟に身をひそめ入りて滝の裏よりみれば、うらみの瀧と申伝え侍る也。
暫時は瀧に籠るや夏の初
<現代語訳>
四月一日、日光山東照宮に参詣礼拝した。昔はこの御山を二荒山と書いていたのを、空海大師がここに寺を創建された時に、日光をお改めなさった。それは大師が千年も後の世を予測されてのことだったのであろうか。今やこの東照宮の御威光は天下に輝いて、お恵みは国土の隅々にまで行き渡り、士農工商すべての人民は、みな安楽な生活をいとなみ、平和である。これ以上書くのはやはりおそれおおいことだから、筆を擱くことにした。
ああ、実に尊く感じられることよ。この青葉若葉に降り注ぐ燦々たる日の光は、
日光山東照宮の御威光・恩沢そのもののようで、尊いきわみである。
歌枕として知られる黒髪山は、霞がかっており、残雪がまだ白くながめられる。
このたび自分は黒髪を剃り捨て、黒染めの僧衣に姿を変えて旅に出てきたが、
今日、その剃り捨てた黒髪に緑のある黒髪山の麓で、衣更の日を迎えたことだ。 曹良
曹良は河合氏であって、通称を惣五郎といっている。我が芭蕉庵の近くに住んで、私の家事・炊事の手助けをしてくれていた。今度、松島や象潟の美景を私といっしょに見物することを喜びとし、また一つには、私の旅中の苦労をいたわろうというわけで、旅立つ時に、髪を剃り落として黒染めの僧衣に姿を変え、俗名の惣五郎を宗悟という法名に改めた。そんな事情で、この黒髪山の句ができたのである。句中の「衣更」の二字が、単に季語としてだけでなく境涯の変化と決意を象徴するという二重の意味を持って、とくに効果的であるように感じられる。
二十余町ほど山を登って行くと、そこに滝がある。滝は、岩が洞穴のように凹んだ所の頂上から、一気に百尺も飛ぶように流れて、数多くの岩が重なり合っている青々した滝壺に落ちている。岩屋になっている所に体をしのばせるように身をかがめて入りこみ、滝の裏側からながめるので、裏見の滝と言い伝えているのである。
こうしてしばらく滝の裏側の岩屋に籠り、清浄な心持で時を過ごすことよ。
折からの夏行が始まるころで、私も夏行の初めのような気分で滝に籠ることである。