上代文学の名歌名場面


『夜の寝覚』 巻一(進藤重之)
※引用は『日本古典文学全集 夜の寝覚』 (小学館)と現代語訳は『国民の文学6 王朝名作集2』から引用しました。


<本文>

この御方には、もとよりこまやかならねば、 よきほどにて外に参りたまへれば、大納言 は面杖をつきて、軒の雫をながめ入りて、 いみじくもの嘆かしげなる御気色を、「むべなりけり。『声も 涙も』とのたまひし御気色を、あやしと思ひしは、かくなり 「いみじく心苦しかりける有様に、並べたらましかば。など て、ひき違へしあやにくさぞとよ」と見ゆるも、心憂く口惜 しくて、とみにものも言ひ出でられぬに、大納言、今ぞうち おどろきて、目押し拭ひ、さらぬ顔にて、「『今朝とくものし けりと思ひ寄らず、よそに思ひけるよ」と、うちまもるに一 たまひぬ』と聞きはべりつれど、見えたまはざりつれば、虚 言なりけり、とこそ思ひはべりつれ」とのたまふ。



<現代語訳>

中将は、この大君とはもともとあまり親密 にしていないので、いいかげんのところで外に出てみる と、そこには大納言は頬杖をついて、軒から落ちる雫を 眺めながら、ひどく物思わしげな様子である。その姿も 事情を知った今は、無理もないと思われるのだった。以 前、大納言が「声も涙も」と詠んだ気もちを、あの時は ふしぎに思っていたが、まさかこんなことだったとは思 いも寄らず、他人のことだと思っていたものだと、しみ じみ思い出された。この悲しみに沈んでいる大納言と、 中君とを結婚させたならば、万事好都合だったのに、 どうしてこう行きちがってあいにくなことになったのか と思うにつけても残念でたまらず、急には言葉も出ない でいた。と、ようよう中将の姿に気がついた大納言は、 びっくりして涙で濡れた目を押しぬぐい、そ知らぬ顔で、 「今朝早くあなたがこちらにお出でになったと聞いていましたが、 いっこうにお姿が見えませんので、嘘だったのだと思っておりました。」と言う。