なぜ「古典」を学ぶのか?
2001年10月 進藤重之
よく様々な人に「なんで古典を学ぶのですか?」とか「古典って面白いんですか?」などとという質問を受けることがある。こんな時僕は、「面白いですよ」としか答えることができないのだが、それは今まで自分が古典を学んできた理由などを本気で考えたことがない故、そのような質問に対する返答を持ち合わせていなかったからだ。そこで今回、少しだけ自分の古典との付き合いというものを振り返って考えてみることにした。
まず、僕が古典に対して大きな魅力というか興味を持ちだしたのは、高校1年の時であったと思う。もちろんそれ以前にも中学の時に『竹取物語』や『伊勢物語』または『奥の細道』などを習っていて、それなりに面白いものだなという感情は抱いていたが、それを真なるものにしたのは高校の時であろう。その原因は何かと言えば、たった一枚の助動詞活用表であった。多くの人も経験があるであろうが、高校に入ると、まず古典の授業ですることと言えば「る・らる・す・さす……」と助動詞活用表を暗記することであった。僕は何人かの友人たちと缶ジュースを賭け物に誰が一番早く覚えられるか競ったものである。その中で一番にすべての助動詞を覚えたのが僕であった。そしてそれはクラスの中でも一番であったのである。僕は一番に暗記した感動を味わっていたのだが、実はそれ以上に感動したことがあった。それは、今まで漠然としか読んでいなかった古典というのもの読みが、180度変わったことだ。「読める!」そして「分かる!」という実感が僕に多大な感動をもたらせた。もちろんその時の古典の成績は、他の教科から見れば抜群の成績を取ることができた。このようにして古典の魅力に少しづつ引かれていった僕は急いで本屋へ行き、確か講談社学術文庫であったと思うが、『竹取物語』を購入しひたすら読んできた記憶がある。もちろん当時はまだ助動詞を覚えたとは言え、単語力が不足していたので、現代語訳を参考にしながら最初から最後まで時間をかけて読み通した。それでも今まで学校で学んできたことは、テストのために現代語訳を丸暗記していたものであったので、それと比較すると少し古典というものに近づいたという感覚が全身に感じられたのである。
それから僕は大学に進学し4年間、そして大学院に進学しもう2年間、合計すると6年間古典(『源氏物語』を中心とした平安朝文学)の研究をしてきたのである。その中で今まで気づかなかった新しい発見や、また周りで同じような研究をしている友人たちと語り合うことで、古典の世界により深く没頭していったのである。そんな時文学というものが、単なる学問の一分野ではなく、多くの学問との繋がりの中にあるということを学び、その中でも歴史とは切っても切り離せない関係にあることに気づいた時には、古典(文学)に対してより一層の幅広さ・奥深さを感じた。現代の文学には多少疑問を感じるが、古代から近代(三島由紀夫・安部公房)あたりまでの文学は、必ずと言って良いほど、その時代その時代の背景を背負ってた。そしてそれは、「伝統」という形で現代の我々の生活にも浸透しているものが少なくない。たとえば、「桜」もその一つである。古く『古今集』の時代に日本を代表する花と皆が思い始めてから、現代でも「桜」がそれとして生き続けている。特に中世の頃は連歌というものが流行し、「花下連歌」なるものがあったが、これは現代の花見酒に通じるものがあるだろう。他にも挙げればきりがない。
このように考えてみると、「文学」とはその時代その時代の日常を写し出すもので、「古典」とは現在と繋がりのある過去を発見させるものではないだろうか。もちろん、古典を学ぶ楽しみは古典文学そのものの魅力も大いにあるだろうが、それと同じように過去の再発見という楽しみもある。それが僕にとって古典を研究する一番の魅力・興味である。