『古事記』 下巻 「目弱王」 (進藤重之)
※本文は『古事記(下巻)全訳注』 次田真幸 (講談社学術文庫)より引用しました。
また、括弧内の片仮名はこちらでつけました。
『古事記』 下巻 「目弱王」
<本文>
これより以後、天皇神牀(カムトコ)に坐して昼寝したまひき。ここにその后に語りて曰(ノ)りたまは く、「汝(イマシ)思ほす所ありや」とのりたまへば、答へて曰(マヲ)したまはく、「天皇の敦き沢(メ グミ)を被りて何か思ふ所あらむ」と曰したまふ。
ここにその大后の先の子、目弱王(マヨワノミコ)、これ年七歳なりき。この王、その時に当りて、その 殿の下に遊べり。ここに天皇、その少き王の殿の下に遊べるを知らさずして、大后に詔(ノ)るて言ひたま はく、「吾は恒に思ふ所あり。何ぞといへば、汝(イマシ)の子目弱王、人と成りたらむ時、吾がその父王 を殺せしを知らば、還りて邪(キタナ)き心あらむとするか」とのりたまひき。
ここにその殿の下に遊べる目弱王、この言を聞き取りて、っすなはち天皇の御寝しませるを窃(ヒソ)か に伺ひて、その傍の大刀を取りて、すなはちその天皇の頸を打ち斬りて、都夫良意富美(ツブラオホミ)の 家に逃げ入りき。天皇の御年、伍拾陸歳(イソヂアマリムトセ)。御陵(ミハカ)は菅原の伏見岡にあり。
ここに大長谷王子(オホハツセノミコ)、当時童男(ソノカミヲグナ)にましけるが、すなはちこの事を 聞きたまひて、慷愾(イキドホ)り忿怒(イカ)りて、すなはちその兄黒日子王(イロエクロヒコノミコ) の許に至りて曰したまはく、「人天皇を取りつ。那何(イカ)にか為まし」と曰したまひき。然るにその黒 日子王驚かずて怠緩(オホロカ)なる心あり。ここに大長谷王その兄を詈(ノ)りて言はく、「一つには天 皇にまし、一つには兄弟にますを、何ぞ恃(タノ)む心も無くて、その兄を殺せしことを聞きて驚かずて、 怠なる」といひて、すなはち衿(コロモノクビ)を握りて控き出でて、刀を抜き打ち殺したまひき。
また、その兄白日子王(イロエシロヒコノミコ)に至りて状(アリサマ)を告ぐること前の如くなりにし に、緩なることもまた黒日子王の如くなりき。すなはち、その衿を握りて引き率て来て、小治田に到りて、 穴を掘りて立ち随(ナガラ)埋む時に至りて両つの目走り抜けて死にき。
また軍を興して都夫良意富美の家を囲みたまひき。ここに軍を興して待ち戦ひて、射出づる矢芦の如く来 たり。ここに大長谷王矛を以て杖となし、その内を臨みて詔りたまはく、「我が相言へる嬢子(オトメ)は もしこの家にありや」と詔りたまひき。ここに都夫良意富美、この詔命(オホミコト)を聞きて自ら参出て、 佩(ハ)ける兵を解きて、八度拝みて白さく、「先の日問ひたまひし女子、訶良比売(カラヒメ)は侍(サ モラ)はむ。また五処の屯宅(ミヤケ)を副えて献らむ。
然るにその正身参向はざる所以は、往古(イニシヘ)より今時に至るまで、臣連(オミムラジ)の王の宮 に隠ることは聞けど、未だ王子の臣の家に隠りまししことは聞かず。是を以ちて思ふに、賤しき奴意富美( ヤツコオホミ)は力を竭(ツク)して戦ふとも更に勝つべきこと無けむ。然れども、己を恃みて陋(イヤ) しき家に入り坐しし王子は、死ぬとも棄てまつらじ」とまをす。
かく白して、またその兵を取りて還り入りて戦ひき。ここに力窮まり矢尽きぬればその王子に白さく、「 僕は手悉(コトゴト)に傷ひ、矢もまた尽きぬ。今は得戦はじ。如何にせむ」とまをしき。その王子答へて 詔りたまはく、「然らば更に為むすべなし。今は吾を殺せよ」とのりたまひき。かれ、刀を以ちてその王子 を刺し殺し、すなはち己が頸を切りて死にき。
<現代語訳>
この事があってから後は、安康天皇は神託を受けるための神床にいらっしゃって昼寝をなさった。そのと き天皇が皇后ナガタノ大郎女に対して、「おまえは何か心配ごとがあるか」と仰せられたところ、皇后はお 答えになって、「天皇の厚いご寵愛をいただいて、なんの心配ごとがございましょう」と申し上げられた。
さて、その皇后の先夫との間に生まれたマヨワノ王は当年七歳であった。この王がちょうどその時、天皇 のいらっしゃる御殿の下で遊んでいた。いっぽう、天皇はその幼い王が御殿の下で遊んでいることをご存じ なくて、皇后に、「私はいつも心配していることがある。それはなにかというと、おまえの子のマヨワノ王 が成人したときに、私がその父オホクサカノ王を殺したことを知ったら、心が変わって、反逆の心を起こす のではなかろうかということだ」と仰せになった。
さて、その御殿の下で遊んでいたマヨワノ王はこのことばをすっかり聞いて、それからすぐ天皇の眠って いらっしゃる隙をうかがって、その傍らにあった大刀をとってすぐさまその天皇の首を打ち斬って、ツブラ オホミの家に逃げ入った。天皇のお年は五十六歳。御陵は菅原の伏見の岡にある。
ところでオホハツセノ王子は、その時はまだ少年でいらっしゃったが、その変事をお聞きになって憤り、 恨み怒って、すぐにその兄のクロヒコノ王の所に行って、「人が天皇を殺しました。どうしましょう」と申 し上げられた。ところがそのクロヒコノ王は驚きもせず、いいかげんに思っていた。そこでオホハツセノ王 はその兄をののしって、「殺された方は一方では天皇でいらっしゃり、また一方では兄弟でいらっしゃるの に、どうして頼もし気もなく、人が自分の兄を殺したということを聞いても驚かず、いいかげんな態度でい るのか」と言って、ただちにクロヒコノ王のえり首をつかんで引きずり出して、刀を抜いて打殺された。
オホハツセノ王はまたもう一人の兄のシロヒコノ王の所に行って、事情を告げること前と同じようであっ たが、いいかげんな態度であることもまたクロヒコノ王と同じであった。そこで即座にそのえり首をつかん で引いて、小治田まで連れて来て、穴を掘って立ったままの状態で埋めたところ、腰まで埋めたときに、両 方の目の玉が飛び出して死んだ。
オホハツセノ王はまた軍を興してツブラオミの家を包囲なさった。対するツブラノオミも軍を興して応戦 し、たがいに射放つ矢が風に飛ぶ芦の花のように盛んに飛び散った。この時オホハツセノ王は矛を杖にして、 ツブラオミの家の中を伺って、「私が言い交わした少女は、もしやこの家にいはしないか」とおっしゃった。 するとツブラオミはこのおことばを聞いて、自ら出て参って、身につけていた武器を外して八度も礼拝して、 「先日妻問いなさった私の娘、カラヒメはおそばにお仕えいたしましょう。またそれに五ヵ所の屯倉を添え て献上いたしましょう。
けれども私自身が参上しない理由はつぎのようなことです。昔から今に至るまで、臣下の者が皇族の宮殿 に隠れる例は聞きますが、皇子が臣下の者の家にお隠れになった例は、いまだに聞いたことがございません。 このことから思いますに、賤しい私めオホミは全力を尽くして戦っても、とうていあなた様に勝つことはで きますまい。けれども、私を頼ってこの賤しい家にお入りになったマヨワノ王は、たとい死んでもお見捨て 申し上げますまい」と申し上げた。
こう申し上げてツブラオミはまた武器をとり、家に帰って行って戦った。そして力尽き矢もなくなったの でマヨワノ王に、「私はすっかり痛手を負い、矢もなくなってしまいました。今はもう戦うことはできます まい。どういたしましょう」と申し上げた。マヨワノ王は答えて「それならもう致し方ない。今は私を殺し てくれ」とおっしゃった。そこでツブラオミは刀で王を刺し殺し、そのまま返す刀で自分の首を斬って死ん だ。