近世文学の名歌名場面


「おくのほそ道」(芭蕉)より「殺生石・遊行柳」(高寺康仁)
※本文ならびに現代語訳は、「新訂おくのほそ道」(潁原退蔵、尾形仂、訳注・角川文庫)より引用しました。



<本文>
これより殺生石に行く。館代より馬にて送らる。この口付きの男「短冊得させよ」と乞ふ。やさしきことを望みはべるものかなと、
  野を横に馬引き向けよほととぎす
殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂・蝶のたぐひ、 真砂の色の見えぬほど重なり死す。また、清水流るるの柳は、蘆野の里にありて、 田の畔に残る。この所の郡守戸部某の「この柳見せばや」など、をりをりにのたまひ 聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳の陰にこそ立ち寄りはべりつれ。
  田一枚植ゑて立ち去る柳かな




<現代語訳>

 さて、これより殺生石へ向かう。城代から馬で送られた。この馬の口取りの下人が、記念に短冊を貰いたいと求める。これはまたこんな馬子ふぜいにしては風雅なことを望むものだと、
(発句解釈)広漠たる那須の原野を分けて行く馬首を大きく横に引き巡らせよ。野を横切って、ほととぎすが鋭く鳴き過ぎた。その声の消えゆく方へ。風雅な馬子よ。
と書いて与えた。
 殺生石は、温泉の湧き出る山陰にある。石の毒気は今になくならず、蜂・蝶のたぐいが地面の砂の色も見えないほど重なりあって死んでいる。
 また、西行法師の「清水流るる柳陰」とよんだ、かの柳は、蘆野の里にあって、今も田の畔の間に残っている。この地の領主戸部なにがしが、「この柳を見せたいものだ」と、おりあるごとに おっしゃっておられたのを、それはいったいどのあたりにあるのだろうと常々ゆかしく思っていたが、まさに今日こそ、この柳の陰に、あの西行法師が「しばしとてこそ立ち止まりつれ」とよんだように、 現実に立ち寄ったことであった。
(発句解釈)西行上人は「しばし」とて立ち止まりながら、この柳の陰に長い感慨の時を送ったことだったが、みちのく巡礼の旅の途次にはからずもこの地を踏むことの出来た私は、まわりの田に下り立ち、そこで働いている 早乙女たちにまじって、せめては田一枚を植える神への奉仕の手わざにこの感慨と敬虔の気持ちを捧げて、無量の思いを残しながら立ち去って行くことだ、この柳のもとを。